問い
英語圏の研究で inner speech と呼ばれているものは、日本語の「内言語」と同じものを指しているのか。
この問いが出た文脈
議論の途中で、参加者の一人が「内言語」という語の意味を確かめた。別の参加者は「具体的に何をどこまでをカバーする語なのか、真剣に考えたことがなかった」と応じている。会の議論は英語圏の inner speech 研究を参照しながら、日本語の「内言語」という語で進んでいた。両者の指す対象が一致していなければ、その先の議論は成り立たない。
そこで q-007(「内言語」という語は何を指しているのか)を調べる前段として、訳語の対応だけを先に切り出したのが本項である。
前提となる考え方
以下の記述に出てくる語をあらかじめ整理しておく。
ヴィゴツキー(Lev Vygotsky, 1896–1934)はソビエトの心理学者で、子どもの発達において外に向けて発せられた言葉が次第に内面化し、思考のための道具になる、という筋を立てた。これが内言論である。その途中段階として観察されるのが自己中心語、すなわち子どもが一人で遊びながら、誰に向けるでもなく声に出す独り言である。ヴィゴツキーはこれを未熟さの残りかすではなく、やがて声を失って内言(声を伴わない内的な言葉)になっていくものと位置づけた。つまりこの系譜での内言は、発達心理学の概念であり、出発点から失語症とは別の文脈にある。
言語心像は、これから表現しようとする言葉のイメージ、いわば語の形の心的な像を指す。失語症学の記述に出てくる語で、想起の対象が語形という言語的な単位に限られている点がヴィゴツキー系の内言と異なる。
多成分モデルは、ある心的機能を単一の能力とみなさず、複数の下位成分の組み合わせとして記述する立場をいう。
スコーピングレビューは、ある主題についてどんな研究がどう散らばっているかを広く見渡して地図を描く総説の形式である。個別の効果量を統合するメタ解析とは目的が違い、定義の揺れそのものを記述するのに向いている。
現時点での答え
訳語が複数あって乱立しているのではない。同一の「内言語」という語が、分野をまたいで別の対象を指している。
日本語側では、心理学・神経科学の系譜と失語症学の系譜とで指示対象が食い違う。そして英語側の inner speech も、それ自体が単一の構成概念として確立していない。
会で採用された作業定義(頭の中で言葉を発さずに文を組み立てる働き)は、英語圏の inner speech 研究に近く、日本語の辞典が与える定義より狭い。
根拠
二つの辞典が別のものを定義している
| 出典 | 語 | 英語対応 | 指示対象 |
|---|---|---|---|
| 脳科学辞典(皆川泰代・慶應義塾大学) | 内言語機能(同義語: 内語・内言) | inner speech, inner utterance | 音声や文字を伴わない言語活動。「言語以前の思考や概念」を含む |
| 世界大百科事典「錯語」の項 | 内言語障害 | 記載なし | 言語心像を的確に思い浮かべる機能 |
脳科学辞典の定義は上に述べたヴィゴツキーの系譜に立ち、自己中心語から内言が分化する発達過程を説明の枠組みとしている。失語症への言及はない。
一方、世界大百科事典の「内言語障害」は感覚失語・伝導失語と結びつけて記述される。語形のイメージを思い浮かべる機能の障害という、明確に言語的な水準の話であり、「言語以前の思考」は含まない。
食い違いの中心はここにある。脳科学辞典の内言語は非言語的なものを含み、失語症学の内言語障害は含まない。前者は「言語以前の思考や概念、あるいはそれら思考の体系」まで射程に入れるが、後者は語形イメージの想起という、より狭い機能を指す。
なぜ日本の失語症学がヴィゴツキー系と別の意味でこの語を使うようになったのか、その経緯は本調査では辿れなかった。両者が別の系譜に属することは記述から読み取れるが、どちらが先で、どこで分岐したのかは確認していない。
出典の重みは同じではない
| 出典 | 種別 | 評価 |
|---|---|---|
| 脳科学辞典 | 署名付きの専門辞典(執筆者と所属が明記) | 比較的硬い。 神経科学分野の標準的な参照先 |
| 世界大百科事典(旧版) | 一般百科事典 | 弱い。 臨床用語の典拠としては二次的。しかも「錯語」の項の中の記述であり、内言語の定義を主題としていない |
| Fama & Turkeltaub 2019 | Scoping Review | 硬い。英語圏の定義の揺れについては信頼できる |
| Alderson-Day & Fernyhough 2015 | Review(Psychological Bulletin) | 硬い |
この非対称は結論の強さに直接効く。失語症学側の記述は、一般百科事典の別項目の中に現れた一文に依っている。分野間で食い違いがあること自体は言えても、失語症学の標準的定義がこれである、とまでは言えない。
用語が乱立しているのではないことの確認
「日本語の訳語が複数あって混乱している」という当初の図式が正しいかも確かめた。成り立たない。
脳科学辞典は「内語」「内言」を内言語機能の同義語として明示的に扱っている。つまり心理学・神経科学の系譜の内部では、これらの語は区別されていない。食い違いは用語と用語のあいだにあるのではなく、分野と分野のあいだにある。
英語側も一枚岩ではない
日本語だけの問題ではない。失語における内言語研究のスコーピングレビューは「definitions of inner speech vary across research groups」(内言語の定義は研究グループによって異なる)と明記している(Fama & Turkeltaub 2019)。
多成分モデルを提示した総説(Alderson-Day & Fernyhough 2015)もあり、 inner speech 自体が単一の構成概念として確立していない。訳語の対応を精密にしても、原語の側が定まっていない以上、対応づけは完結しない。
分かっていないこと
- 日本高次脳機能学会の公式用語集は公開されておらず、参照できなかった。臨床用語としては最も権威ある典拠にあたるはずの資料が抜けている
- 失語症学の標準教科書(医学書院『失語症学』等)での定義は未確認。実際の臨床現場での用法は、教科書に当たらないと確定できない
- 神経治療学の総説「失語症候群の診断と治療」(辰巳・山本 2016、 DOI)は PDF からテキストを抽出できず未確認
- 「内的言語」という変異形が別に流通している可能性がある。構音障害との鑑別の文脈に用例が見られるが、典拠が弱いため採用しない
- 日本の失語症学がこの語をヴィゴツキー系と別の意味で使うに至った経緯
したがって本項の結論は「心理学・神経科学系の辞典と、失語症学系の記述との間で指示対象が食い違う」までである。日本の失語症臨床における標準的定義が何かは、まだ確定していない。
なお世界大百科事典の記述は q-004(病識)にも関わる。内言語障害に加えて「音響像による正誤照合機能」も損なわれるため患者が誤りに気づかない、という機序が書かれており、会で提起された自己モニタリングの論点と重なる。
出典
- 脳科学辞典「内言語機能」(皆川泰代・慶應義塾大学) https://bsd.neuroinf.jp/wiki/内言語機能
- 世界大百科事典(旧版)「錯語」の項(コトバンク経由) https://kotobank.jp/word/内言語障害-1381493
- Fama ME, Turkeltaub PE. Inner Speech in Aphasia: Current Evidence, Clinical Implications, and Future Directions. Am J Speech Lang Pathol. 2019;29(1S):560-573. PMID 31518502. Review(Scoping Review). DOI
- Alderson-Day B, Fernyhough C. Inner Speech: Development, Cognitive Functions, Phenomenology, and Neurobiology. Psychol Bull. 2015;141(5):931-65. PMID 26011789. Review. DOI
全 PMID を get_article_metadata で実在確認した。